「Wikipediaの抱える構造的欠陥」という記事に対する違和感
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- 対象にした記事
- このpostを起こした経緯
- 少し丁寧に読み返してみると、著者は「Wikipediaは、ごく少数が編集していて使い物にならない」と主張しているように見える
- その割に筆者は「少数の」編集者側にいる。なんなんだこれ。
- 引いているWikipediaの記事は、誤訳が入った英語版の翻訳表現を起点にしたねじれた記事だぞ…
- でも、日本語Wikipediaって匿名性が高く、匿名の有象無象による編集を捌き切れていないとする分析があったよね
- そう考えると、本来伝えたいことは「もっと編集者を増やしたいよ」で、そのために必要なルールの見直しがあるのではないかということではないか
- しかし、それならそうと言うべきで、事例として妥当なのか…?
- 踏まえた自分の意見は、というと、
“Wikipediaの抱える構造的欠陥”という記事に違和感があって調べたらツイートに入りきらない分量になったので、記事の主張と、主張に用いているエピソードに対する意見をまとめました。
要旨:「ごく少数の編集権限者が支配しているのでは正確性も保てずWikipedia自体が尻すぼみになる。より多くの人を呼び込むべし」という主張に思えるのだが、それを導くために「松井玲奈のお気持ちに寄り添え」という事例を出すのはいかがなものなのか
対象にした記事
このpostを起こした経緯
きっかけは、いつもお世話になっておりますedyさんのツイートです。有益なツイート、いつもありがとうね。
Wikipediaの抱える構造的欠陥 松井玲奈本人の削除要望めぐる議論を振り返る #SmartNews https://t.co/hA5kUD1B77
— edy_choco_edy (@edy_choco_edy) March 26, 2023
普段は良い記事がでるKAI-YOUさんなので「煽りっぽいな」と思いつつも、さっと読んだんですが、
「なんでKAI-YOUさんが出すんだろう、普段はちゃんとした根拠に基づく主張をしているのに、今回の記事は『本人の気持ちに寄り添え、本人の気持ちを伝える匿名ユーザに編集者は反応しろ』と言っているぞ。そもそも、日本版Wikipediaといえば『匿名ユーザが多く偏りが大きく管理が行き届かない場』として知られていたはずだよな。なんなんだろう」
というのをそのまま引用RTで打つにはちょっと長いし、根拠も持ってきて整理しないとな…と思って調べ始めたら大変長くてツイート形式にするのを諦めるハメになり、ついでにいうと文章を起こす時間がなくてエディタで2晩寝かしてしまうという事態になりました。
少し丁寧に読み返してみると、著者は「Wikipediaは、ごく少数が編集していて使い物にならない」と主張しているように見える
記事より引用します。
すると、ごく少数の人のみがかかわることになる。情報は不正確になり、かつ洗練されていかない。これでは勉強に使えない。
少数の編集者が判断するのではなく、より多くの人の指摘が反映されるべき、と読める。
おそらく今後、ウィキペディアのたどりうる道筋は二つある。 一つは、ウィキペディアへ大量の「“有象無象”」が流れてきて、ディストピアを壊すこと。もう一つは、ウィキペディアを使う人が減り、その分、図書館や書店がにぎわうこと。このどちらかである。 いずれにせよ、分厚い雲に、青い切れ目が見えてきた。
文脈的に、ディストピアとは、少数の編集者により統制されている世界であり、青い切れ目という表現は恐らく希望を示しているのだろうから、もっと「有象無象」がいろいろ入ってこないと困る、というように読める。
記事の事例が「雨女と言われたくない松井玲奈」なので、「ファンが押しかけて『本人の気持ちに寄り添え』という主張をしたら受け入れるのがWikipediaの正しいあり方」と言っているように見えるんだよね。
その割に筆者は「少数の」編集者側にいる。なんなんだこれ。
あれ、でも、その筆者当人のプロフィールをみると、
長らくWikipedia日本語版の編集を行うとともに、ジャンル開闢以来のVTuberファンでもあった。自身のプロパティを生かすべく、2020年12月よりYouTubeへの動画投稿を開始したウィキペディアンVTuber。WikipediaとYouTubeを結ぶために、YouTubeやツイッター、そしてKAI-YOUで活動している。
Wikipediaの編集者である…ん?自分で思うような編集者やればいいんじゃない?他人事だって感じが強い。KAI-YOUでそんな人ごとだよって無責任な記事見たことないぞ…?
引いているWikipediaの記事は、誤訳が入った英語版の翻訳表現を起点にしたねじれた記事だぞ…
筆者は、外からくる有象無象が入らないことの問題点が、Wikipedia内の記事にもあるよ、としているが、それって本当なんだろうか。だいたいこの手の記事は英語版との差分が問題だから、見てみるか…(と思って調べ始めたのが運の尽き…けっこう気合いを入れた時間の使い方になった)
記事で引用されている部分、まずは、ここですが、Wikipediaで「流れ者」なんて定常的な言い回しあったっけ…
学者有識者気取りのおたくと2ちゃんねらーが場を仕切っています。ウィキペディアは「流れ者」から「自由を守る」ために、どんどんピラミッド型ヒエラルキー(上下関係とも云い得る)を持つようになっており (中略) その利用者には各種依頼・投票参加・半保護ページ編集が出来る古参の「ログインユーザー」、記事の削除や投稿ブロックが出来る「管理者」などの階層が生まれています。この「管理者」の権限はシステムに組み込まれており、熱心な参加者が時間を割いて注意深く観察していない限り、この権限に対するチェックや牽制は働きません。管理者の行為を監察する制度さえないのです。
ということで、この部分を英語版に探しにいくと、ほぼ同等の表現が発見されました。
Geeks run the place. Wikipedia has become more and more hierarchical in order to ‘defend freedom’ from ‘trolling’. (snip) There are administrators who can delete articles. There are no checks or balances on this power built into the system, other than the attention contributors have time to give, whereas their ability to delete and ban is built in at the coding level.
ようやく「流れ者」がtrollingだと分かります。
でも、ここでtrollingを「流れ者」と訳すのは誤訳じゃないかなぁ。パテントトロールとかと同じtrollだよねぇ。直後に “the Internet troll article” とあって、これもInternetの正しい利用を邪魔するものをtrollとしている。だとすると、文脈的も踏まえて取るべき訳語は「嫌がらせをする人」あたりになるはず。そうすると、実際のWikipediaの編集者がやっていることになるし、編集者の活動は正しいといえる。
一方、記事では、日本語版Wikipediaの後続する記述も引用して主張に引っ張っています。
このようにして、先取権、内在的な偏向、対立の構図、その他エトセトラは更に悪化してしまうでしょう。「有象無象の流れ者」であることを理由にして、多くの人が百科事典のための意思決定過程から排除されてしまうでしょう。
ここは、ざっと探した範囲では、英語版のページには見当たらなかったのです。 おそらく、英語から輸入された日本語の文章を読んで、そこにつけ加えるべきものを考えた、日本語版の記述の中で独自に発展した見解のように思えます。
つまり、「流れ者を守れ」というのは、日本語Wikipediaの編集者の見解(匿名ユーザの書き込みだったとしても、編集者が存在を許している時点で編集者の見解でもある)だといえます。 そうか、そういう思想なのね、と。
でも、日本語Wikipediaって匿名性が高く、匿名の有象無象による編集を捌き切れていないとする分析があったよね
しかし、日本版Wikipediaは歴史に関する記事を偏向した編集がされることなどが問題指摘されていたよな、と思って改めて検索すると、もとの記事に戻ることが出来ました。
このような日本社会の特徴が日本版ウィキペディアにも反映されています。例えば、2007年の調査では日本版ウィキペディアの編集者の40%以上が未登録で匿名のユーザーとなっており、主要10言語のウィキペディアのうちで最も高いことが報告されました (*9)。日本語版ウィキペディアは「公共圏」ではなく、むしろ「匿名掲示板」のようになっていることがわかります。
(trollingではなく)「流れ者」は、日本語Wikipediaには、むしろ多いのだ、とされています。 じゃあ、なぜ「多くの人が意思決定過程から外れて多様性を失う」のかというと、
日本語版ウィキペディアのユーザー(編集者)や管理者のほとんどが日本人ですから、英語版ウィキペディアに見られるような国籍やバックグラウンドの多様性はありません。そのため、日本中心の偏った内容ができやすいのでしょう。
日本版ウィキペディアは、ユーザーに対する管理者数が最も少ない言語版として知られています。Wikidata によると、英語版ウィキペディアには144,828人のアクティブユーザー(編集者・利用者)と1,109人の管理者(ユーザーベースの0.77%)がいますが、日本語版は15,774人のアクティブユーザーと41人の管理者(0.26%)しかいません。つまり、日本語版はごく少数の人々がプラットフォームをコントロールしているのです。
その責は少なすぎる編集者にある、とされているのです。
編集合戦はどの言語版でも起こりますが、日本語版ウィキペディアではかなりひんしゅくを買うようです。数回の編集が起こっただけで「編集合戦」と見なされ、管理者がページを「保護」する場合もあるようです。実際、日本語版ウィキペディアは他の言語版に比べて、保護されているページ数が多いことで知られています 。
そして、編集者の少なさは、匿名の有象無象による編集を捌き切れておらず、意思決定をする頻度も下げている、ということになります。
…ん?結局、問題提起は筆者に帰ってきていない?他の編集者に対する指摘なの?
著者の他の記事を読まないと、こりゃ、何を言いたいのかがよく分からないぞ…
ということで、同じ著者の他の寄稿記事を読んでみましたよ。
ウィキペディアに求められることは、調べものの役に立つこと、ただそれだけである。作品の良さを伝える必要はない。各種ランキングや興行収入、発行部数や円盤の売れ行きでよい。人物やキャラクターの非常に細かいエピソードはいらない。欲しいのは代表的なエピソードからわかる人物評や性格である。
Wikipediaの基本的な性格は百科事典であることは強く理解していることは分かりました。 でも、これはWikipediaに対する問題意識は出てこない記事です。
穴三つ目 自分の記事なのにコントロールできない なぜ自分の記事を消したくても消せないのか、理由は一つ、削除の方針には「本人が望むから消す」などという方針はないからである。もし本人が望む記事を消せるのなら、企業や政治家の不祥事まで消せてしまう。(ただし実際には、不祥事は次々と除去されてしまうのが現状である。)
本人の記事に対する本人のコントロール権を強く求めているようにも見えます。そして、Wikipediaが抱える前提を「実現できない建前」と受け止めているようにも見えます。 別の記事と並べると「実現出来ない建前のための制約なんか無視した方がよい」と感じているようにも思える。
日本語版ウィキペディアの削除が遅い理由の一つに、管理者や削除者の不足があげられる。日本語版では管理者41名削除者4名で、記事数は約120万。英語版では管理者だけで約1000名おり、記事数は約630万である(全て執筆当時)。加えて、ほかの主要な言語版と比べると、日本語版は管理者一人に対する活動者数が最も多いのである。
そして、編集者が少ないことを問題として挙げています。
ファンがつくり出した文化をウィキペディアに載せるには、二次資料が必要です。二次資料とは、配信者本人でもなく、その関係者でもない第三者が書いた一本の記事のことです。一冊の本のことです。 ウィキペディアに載せるには、途方もない努力が必要です。
とファン層をたしなめているようにも見えますが、冒頭の方に
ウィキペディアはもはや、ファンがつくり出していく文化についていけていません。
と、Wikipediaに対する不満、限界感、悶々としているような姿が見えていて、それはタイトルの
霧雨魔理沙がWikipediaから削除される日 ファンカルチャーとの最悪な相性
という「最悪」という表現にも端的に示されているように思います。
そう考えると、本来伝えたいことは「もっと編集者を増やしたいよ」で、そのために必要なルールの見直しがあるのではないかということではないか
- Wikipediaは、百科事典ではあるけれど、様々な文化も収蔵できる百科事典であってほしい
- しかし、そのためには多くの人が関わって意思決定していく場である必要がある
- それを実現するためには編集者の数が絶対的に足りないのに、編集者の候補を提供してくれるようなファンカルチャーには背を向けている
- もう少しファンカルチャーにも目を向けた運営をできればよいのに
というのが主張なのだな、と、なんとなく見えてきました。
でも、それを伝えるのが「雨女を嫌がる松井玲奈」なの…?ちょっとこっちの方を少し見てみることにしました。 (本当にイベントのたびに雨が降っていたら百科事典としては「雨女と言われている」と載せないといけないし、でも長期間活動しているアイドルが本当にずっと雨を降らせているとも思えない、だとしたら、事実ではない、で済ませられるよね、と)
しかし、それならそうと言うべきで、事例として妥当なのか…?
“松井玲奈 雨女”で検索すると、2014年のバラエティ番組のネタを起点に、ファンを含めた周囲から、たびたび突っ込まれていることが分かりました。
例えばこの2つの記事が典型的なんでしょうか。
「自覚はしている」という松井。同作は約2カ月にわたっておこなわれ、梅雨時ではなかったにも関わらず、ほとんどが雨と雪だったという。また、SKE48がこれまで出した15枚のシングルで、15回行われたミュージックビデオ(以下MV)の撮影はすべて雨。これには司会のダウンタウンはじめ、スタジオからは「えー!」と驚きの声が上がった。
松井玲奈はかつてバラエティ番組『ダウンタウンDX』に出演した際、映画『gift』で共演した遠藤憲一からメッセージで「この子はとんでもない雨女です。ついさっきまで晴れていたのに、玲奈ちゃんの現場入りと同時に雨が降り出し撮影が中断…撮影期間の8割くらいずっと雨が降っていました」と告発され、自身も自覚していると認めたことがある。
他にも幾つかのイベントで、掴みのネタとして本人も扱っているのをみると、いまさら「雨女」という表現自体を取り除く必要はないように思える一方、Wikipediaの記述を「雨女と言われて困惑している」まで書いてあげればええのでは、それもそれで二次資料があるわけだし…という感じがするのです。
踏まえた自分の意見は、というと、
- 「ごく少数の編集権限者が支配しているのでは正確性も保てずWikipedia自体が尻すぼみになる。より多くの人を呼び込むべし」という意見は正しい
- 編集者が足りなくて本来満たすべき多様性・活動量を持てていないのは課題
- 今のWikipediaは、バランス感覚にかけるファン層がいる分野の記述ばかり成熟していて、確かに今後が心配である
- 編集者を増やすべき、は同意
- それを導くために「松井玲奈のお気持ちに寄り添え」という事例を出すのはいかがなものなのか
- 編集者の増やし方はいろいろあるだろうけれど、その編集者がWikipediaと同じベクトルを向いていないと、匿名ユーザ書き込みのカオスが編集者側にまで発生してしまう
- 百科事典の前提として、「言われることを当人がセルフ発言でコントロールできない」のはしかたないよね(とはいえ本人の言葉がそのまま報道機関にのるとソースに使えちゃうのもルーズに思えるが)
- 「松井玲奈の気持ちに寄り添え」は、容易に「政治家の気持ちに寄り添って不祥事を削除しろ」に繋がる考え方なので、あるべきWikipedia運営の事例に使うのは不適切だよね
という感じです。